空飛びたこ

アーカイブ - 記録 詞 書き散らし

底流

 

 ほんの一瞬の隙に携帯電話と各種証明書3枚をまるごと盗まれて、いちおう探してまわってもみたけどどこにも見当たらない、本当に大事なデータはクラウドに保存することにしてはいたのにちょうど大掃除の最中だったから、あれもこれもそれもどれも、見も知らぬだれかの手に渡ったまま消えていってしまった。
 とはいえ必要最低限の情報は雲の上に残っているし、さいわいわたしはふだんそこまで携帯を使わないし、許されたところで自動車など運転しないので、諸手続きの面倒を除けばさして困ることもないんだけど、それでも今日一日はかなり憔悴した。真っ黒な心地で苦手な電話をたくさんかけた。四角くて平べったい大小の物体が身体から離れるだけで、自分自身のうちのいくらかが損なわれたような感覚になるというのも大変なことだ。と書いていま、辺見庸さんの『青い花』という小説の一節を思い出した。

 

わたしはあるいている。わたしがこうしてあるいていることだけが、いまはわたしにとってたしかなことだ。と、おもいつつあるく。言葉と物質のかんけいがズルッとずれてしまった。カイツブリでさえそうなのだから、わたしがわたしとはだれかをかたるのはいっそう至難である。だいたい、自己申告にはもうなんの意味もなくなった。ひとという実体なんかどうでもよいのである。申告手続きが適切か、登録IDが有効か、アカウントナンバーが正しいかどうか、それだけが問題だ。わたしはただいまあるいている。と、おもいつつずっとあるきつづけている。ひとそのものなんかどうでもよくなってしまった曠野ををとぼとぼあるいている。

 

 こちらはたしか退廃的な未来小説で、高校生の頃に購入して通読したきりなのだが(当時の自分には難解だった)、この部分が妙に気に入ってほとんど誦じていたのだった。いい文章だなぁ。それっぽく引用したし、開いた本を眺める限りまた楽しめそうだし、そのうち読み返しもするだろう。なんでも覚えておくといいことがある。

 わたしがわたしとはだれかをかたるのはいっそう至難である。最近はだれもアルファベット4文字になってしまって、わたしはゲーテと「同じ」だそうだけど、そんな馬鹿な話があるわけない。それぞれの人間は、集合的な意識からざっくりと見込まれる紋切り型の「性格」と実像の断層にひっそりといるもので、記号の外にある厖大な実存のいちいちを見つめてもらえなくなったらちょっとむなしい。と思いながら、だれとも違ってきた自分の気質の総体に名前のついている事実に安堵をするという弱さもあるところまでがこの個の流星であるに違いなく、とくになにか得をするわけではないが、そういうことをなるだけごまかしたくはないな。
 人は地球の一点に、古色蒼然とした思考の修辞で縛りつけられているのではなく、間断のない持続の流れをなにによっても囲いたくはなく、固まって動かないものに無数のあなたやわたしをまとめて託したくはない。
 でもさんざんだった喪失の一日に意義をあたえるために言葉によりかかり、作文くらいはする。亀と犬と魚の写真と、見られたら恥ずかしい秘蔵の断章たちに返ってきてほしい。 

 

 

まったく関係ないが、最近癒される音楽。細野さん、ありがとう