空飛びたこ

アーカイブ - 記録 詞 書き散らし

水色の街

 

 いままでは4ヶ月にいっぺんでも夢に出てきてくれたらよかったというくらいの、亡くなってからそろそろ2年が経つ幼なじみがこのごろ頻繁に、一緒に南極まで行ってくれたり、地元の外輪山のなかで秘密裏に育てられていた巨大霊長類からともに逃げる羽目になってくれたりする。後者の夢から覚めたときはわれながらSFの読みすぎだと思ったが、謎の亜キングコングが立てる轟音に一緒になってびくびく怯えながらも母校で寝泊まりをしたのが言いようもなく楽しく、懐かしかった。いや、寝泊まったというか、いまから寝ようというときに警察が到着してわたしたちは保護されて(たぶんいまより幼かった)、その後は仮設の避難所として用意された青くてかまぼこ型のとてつもなく長いビニールのシェルターに移り、そこでいくつかの凄惨な死体を見た。直前に観た韓国の映画のイメージを引きずっていた。みんな顔に布がかかっていた。

 物騒な物語で生活を囲んでいるから物騒な夢ばかり見るんだけど、でも、きのうの夢はただバイクに乗る、おしゃべりをする、という尋常な行為が2個あるだけだった。わたしは二輪の運転免許など持っていないのにきのうなんか、まったく記憶にないけどたぶんかつて通ったことのある山道を、別々の立派なバイクに乗ってあてどもなく走ることができた。交通量のわりに整備された道で、途中にそこだけアニメみたいに草の繁茂した洞門もあり、川の脇にもしかすると無人?の観光レストランかホテルのようなものが建っていた。いま思えばダム湖に向かっていたのか。

 その人と夢で会うとき、わたしはその人がすでに生きていないことを不思議といつも知っている。でも別にそんなことはとくに気になりもしない。というかその人はバイクのせいでいなくなってしまったんだけどそのことだって最初から知りながら、でもいいか、せっかく会えたしね、という感じで、誰の目もない山で細々と悪事を働いたのだった(無免許運転)。カワサキ跨がれ未来。現実ではもう自動車もバイクも自分では動かそうという気にならない。

 夢ではうまく話せる。夢の言葉は音と文字のあいだにある。

 音声言語の聞き取りもその処理も出力も生まれつき得意でなさすぎて、字幕のない映画はあんまり理解ができないし、よく知っている言葉ですらもさんざん言い間違えるし、どんなに筋道を点検した自分の論理も口ではぜんぜんうまく言葉にできないから無遠慮だったりとても誠実だったりする相手にはすぐくじかれてしまう。それで惨めな思いをするたびに浴びるほど文字を読むことでいったん復讐をしたという気になりはするものの、そういうときに自分の喉のなかで煙を出したままいよいよ炎を立てなかったいっさいの言葉がお腹の底まで落ちて寒天質になっていて、そんな腐ったわだかまりの強烈な存在感をごまかすためには結局、国立科学博物館にある霧箱宇宙線の筋とかドロトプスの化石とか(とにかく遠いところから来てそこにあってなにも言わないもの)を延々と見るか、旅に出るか、どろどろのマグマみたいになってる気持ちを半端な文字にしてやりすごすしか仕方がなくて、生きることはいつもさびしさとの付き合い。僕の広大なさびしさに似合うのはもはやパタゴニアしかない。人間なのに会話がうまくないのは損な気がする。みんな簡単そうにできてしまうから不思議だ。

 ところが夢の言葉は外からやってくる音ではなくてすべて自分の脳活動の稔りだから、うまく聞こえるしうまく言える。南極行きのフェリー(そんなものはない)では、わたしを引っ張っているのは地球じゃなくてりんごのほうだからわたしの血は赤く、だからわたしは食い意地だけで血を流しているのだ、みたいなことを力説していた。どうしてみんなくしゃみが複数回出ないのかとか、犬と花火は大きいほどいいとか、人間はむかし5ミリくらいのミミズだったらしいよとか、たぶんバナナフィッシュ日和ってこういう日のことを言うんだろうねとか(ぜんぜんそういう日ではなかった)、とにかくどうでもよくなににもならないことを滔々と、惜しげもなく思いつく限りに投げつけて、半分くらいは無視され、半分くらいは取り合ってもらえる。

 向こうもたくさんのことを話してくれるけど、これもミステリーなことにその人からもらった言葉のほうは目が覚めると霧みたいにおぼつかなくなってそのまま消えてしまい、ほとんど思い出すことができない。わたし自身があんまり記憶しないでいようと思っている節もあるんだけど。ただ覚えているのは、生きていたころより遥かに上手にわたしはその人の言うことの一つひとつを聞き、流暢に適切な返答をして、全部の会話が本来の人生では信じられないほど良好に済んだことだけだ。本当はこっちが黄泉の国で死んでいるのはわたしなんじゃないかという気すらしてくる。死んだままあと70年くらい生き、輪廻転生があるとしたら来世はホヤになれるかなれないかというくらいで、せめて岩にくっつくほうじゃなくて海を漂うほうがいいが、それっていまよりずっとさびしいか。海はパタゴニアより広いし、音もしないし。そんなに得意じゃないけど、音のあるのはけっこういいことに思える。

 というか本当に、人間は爪の上の土なのか。これがそこまでありがたいのか、本当に? 紀元前と違ってもう80億もいるんだし、わたしより絶対うみさぼてんのほうがレアだ。うみさぼてんは光るのだ。

 そうだ、海。そういう夢を見た日は、たいてい海岸に行きたくなり、たいてい行く(きのうは行かなかったけれど)。

 わたしの街の海は人気がないので浜辺に出てもいつも一人か、ほかに誰かがいたとしても岩礁で危なっかしい釣りをしているおじさんくらいのもので、おじさんからちょっと離れたバイパスの高架沿いにテトラポッドがいい感じに積んであり、そのどれかひとつに座る。だいたい読んでも読まなくても変わらないくらいの本を持っていって読む。わたしにも言葉がわかることが本を読むとわかって安心する。